無源(むげん)という無限(むげん)なことについて

太極拳は、道教の理論と合致しているところから太極拳と名付けられたのですが、道教の祖は老子というおじいさんです。

テレビの香取慎吾が主人公の西遊記では、「おっぱいまつり」が大好きなおじいちゃんでした。

太極拳は中国の道教のお寺で、少林寺の内家から流れ出た僧達によって主に伝承されていて、道教のお寺が集まる武当山はいうなれば太極拳のメッカでした。(古き当時はまだ太極拳とは呼ばれていませんでした)

その老子が残した道教の道経の第四章は無源というタイトルです。無限とは限りがないということですが、この場合は源がないということになります。

太極拳にも源はありません。平たく言うと、套路の型にしてもそれが源ではなく、そこからのスタートでもありません。

技を覚えても、型を覚えても結局は、その場になってもそのとおりには使えません。太極拳はいざというときに源のない勢を使いますから,死にものぐるいの火事場のくそ力を普段から練習して思い出しておくだけのものです。その技には意識も形のようななんの源もないのです。

このように、太極拳は、深く自分の中にある人間としての無意識よりも深い生理力学を使うのですが、その源はどこにあるのかを考えます。

その源は太極拳では、神(しん)と呼ぶ,魂のようなものをさします。(魂ではありません)この源はいくら探しても見つからないし、源などはないと説明したのです。

神(しん)とは人間が今までにこの世に存続してきたことの、目に見えない力、生命力とも存在力とも言える、根本的生命力のようなものでしょう。

この力のことをあの【おっぱい祭り】大好きなおじいさんは、無源といい、源のないもの、すなわちいくら使ってもなくならない、いくらでも使う事の出来る無限のものであると説明しているのです。

もちろんこのようなものは、説明してもしきれるものでもなく、経験して感じるものです。

この経験は思想や概念で到底説明できませんが、太極拳を修練していると無源のものに巡り会うことが出来ます。

源のないもの、いくらくみ上げても枯れることのない生命力のようなもの、これをいつも使うことが大事なのです。

源のあるもの、形のあるもの、例えば筋肉や道具、身体や神経、意識や目や鼻、口,足や手などなどを使っていると、どんどん源が枯れてきます。

源になる部分をいくら鍛えても、使えばその源はそれなりに減ります。

少なからずとも無源のものは、常に使っているのですが、それに気づいていないと、おもに有源のものを使って生きることになります。

もし、無源のものに気づけば、使い方を太極拳で繰り返し経験することが出来ます。 この源のない勢を使っているととても気持ちよく,すがすがしい楽しい気分になります。

太極拳の練習をしていて熟練してくると、必ずと言っていいほどこのような感覚が増えてきます。

無源のものを使っていると、その無源のものが自分を通じて環流する感覚を思えます。

生命の内側から外側に向かっていき、又新たなものが生命の内側に新陳代謝するような感覚です。

太極拳の内丹では大周天と呼び、套路などでその感覚を経験します。

単純にイメージかもしれませんが,イメージではなく事実かも知れません。これが無源ということです。

「無源第四」道冲而用之或不盈。淵乎似萬物之宗。挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。湛兮似常存。吾不知誰之子。象帝之先。

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