人気のふくらはぎケア そのメソッドとは?(Excite Bit コネタ) – エキサイトニュース.
ふくらはぎのポンプ運動は太極拳の弓歩と虚歩が最適です。
毎朝套路を朝楽しくやっているだけで、一日中体中がぽかぽかしてきます。
人気のふくらはぎケア そのメソッドとは?(Excite Bit コネタ) – エキサイトニュース.
ふくらはぎのポンプ運動は太極拳の弓歩と虚歩が最適です。
毎朝套路を朝楽しくやっているだけで、一日中体中がぽかぽかしてきます。
人間はまず感覚があり、それを感受します。(感受性)
感受した物事の感覚を想念(心に浮かぶ思い)で処理して、観念(その感覚に対して抱く考えや思い)をもちます。
想念太極拳は感覚を感受したときに浮かぶ想いで動く太極拳です。
想念太極拳は、単純に環境の感覚や、身体の変化の感覚をまず受けて、その想念が浮かんできたところをとらえて、それを循環させて消滅させていきます。その繰り返しです。
いつの間にか、長い套路の中で浮かんでくる、環境から受ける感覚に対するストレスや、身体の感覚から受けるストレスが心地良くなっていきます。生まれては消え、生まれては消えていくという循環を覚えます。
これが、日常的にも生かされてくるのです。
そしてもう一歩、レベルを上げた想念太極拳は、環境や身体だけでなく、過去の思い出や、未来の出来事にまでその範囲を広げていきます。
すなわち心の領域です。
套路を始めたら、まず、過去にあった色々なことを思い出します。
もしも思い出したくない不幸な出来事や、嫌な思い出があれば、それを思い出してみます。
その感覚を思い出します。
そこに浮かぶ想念は、套路をスムーズにこなせばこなすほど、いつまでもそこに止まることはできず、消え去っていきます。
逆に、それに囚われると、套路がスムーズに動きません。
未来の出来事もそうです。不安になりそうなことがもしあればそれを想像してみます。
同じように、いつまでもその考えに囚われれて套路を行うことなどできません。
それが太極拳の套路なのです。
想念をとらえて動く、その動きは、套路の動き方に秘密があります。
環境や、身体、そして思い出や未来の感覚を受けた時を聴勁(感覚を受けたことを感受する能力=感受性)で感受します。すなわち呼吸をため込み、蓄勁(勁という力のようなものを内部にため込んでいく)を行います。環境や、身体、そして思い出や未来の感覚は感受され、想念として膨らんでいきます。呼吸はゆっくりと文息(ほとんど呼吸をしていないような状態)で吸い込みます。
動きとしては、まるでゴムまりがキンキンにはち切れそうになるような動作です。
次に、その想念は飽和を迎えます。もうこれ以上ゴムまりがキンキンにならないのに、それ以上にふくれあがろうとしている状態です。動きとしては行き過ぎの状態です。(無呼吸です)
その行き過ぎから、元に戻ろうとする勢を利用して動きます。
動きと同調しながら、想念もしぼんでいきます。
ここで、想念太極拳を修行したものは、動きがスムーズに行われます。
呼吸はゆっくりと文息で吐いていきます。
そして吐ききったところで、もう一度吐いて、想念は消え去ります。
この繰り返しで、自らの過去のトラウマや、未来の不安も無常のものであることを心身と共に経験していくのです。
その経験は認識となり、環境の変化や、身体の異変などのストレス、過去のこだわりや嫌な思い出、未来の不安や妄想などが、浮かんでは消えていくという色(世の中の全ての形有る事象)が空(実体は中身が何もない)であり、実体が何もないような空なものであっても、形もあるものであると言うことが経験としてわかるようになります。
その、想念太極拳の套路の修行を重ね、上達すると、その套路を一月に一度ほどやるだけで、その日からの景色が変わります。
想念太極拳を繰り返していると、いずれ、日常的にも想念はその時のありのままの姿だけをとらえて、固定した観念に囚われることが無くなります。
そうすると、次は瞑想太極拳の修行レベルに入ります。
平成23年度スプリングフェスティバルが平成23年4月24日(日)に開催します。
場所は青葉区藤が丘1-14-95の藤が丘地区センターです。
http://藤が丘地区センター.com
(ご紹介)
太極拳は中国の伝統的な武術です。その練習方法として型を連続して行う套路というものがあります。
よく公園などでやっているもので皆さんもご存じですよね。型は何百とありますが、今日は最もポピュラーな型を中心にご紹介します。
(手揮琵琶:しゅきびわ)
それではまず最もポピュラーな型、手揮琵琶から単独の型をやってみます。縮めて膨らむという自然な勢いです。次は蹴り足をつけてみます。このように型には色々な要素が含まれます。太極拳は勢という自然な勢いを使う武術で、套路は勢を練習します。
(単鞭と高探馬:たんべんとこうたんま)
次は単鞭です。合わせて開く勢を使います。右手は鈎手で指先に勢を集中させるためのものです。 高探馬です。中心を動かさず中心で回転する勢です。単鞭から高探馬を組み合わせます。合法(ごうほう)と言います。これを連ねていくと套路になります。今回は攻防一体の技をご紹介します。単鞭と高探馬でやります。
(雲手と海底針:うんしゅとかいていしん)
次は雲手です。雲がわき上がるように、下の手と上の手が合わさって十字に交差して行く勢です。
次は海底針です。海底針は上から下そして中心にすくい込む勢です。
雲手と海底針を組み合わせます。太極拳は投げ技、関節技、もちろん突きや蹴り、そして固め技まであらゆる勢を使います。今回は摔角(そっかく)という投げ技をご紹介します。
雲手と海底針でやります。
(搂膝拗歩と金鶏独立;ろうしつようほとかいていしん)
次は搂膝拗歩という型です。中心で回転しながら中心を後ろから前へ移動させる勢です。その勢いで攻防を行います。 次は金鶏独立です。金鶏独立は中心をそのままにして、上に巻き上がる勢です。そのときに下へ向かう勢で交差する勢を起こします。
ろう膝拗歩と金鶏独立を組み合わせます。それを使って攻防一体の膝蹴りのカウンターキックをやってみます。
(倒攆猴と指襠捶:とうでんこうとしとうすい)
倒攆猴です。中心をそのままにして、中心で前後を入れ替える勢です。この場合は後ろへ下がりますが、前に向かいながら入れ替えるものもあります。
次は指襠捶という型です。先ほどの搂膝拗歩と違って、中心で回転しながら前にある相手の中心に向かっていく勢です。倒攆猴と指襠捶を組み合わせてやってみます。この2つの型を使って、とても痛い擒拿術(きんなじゅつ)の一つである関節技と、鑚勁(きんけい)と言われる急所を固めてから撃つ技をやってみます。
(進歩搬攔捶と如封似閉と白鶴亮翅:しんぽはんらんすいとにょふうじへいとはっかくりょうし)
次は進歩搬攔捶と如封似閉を合わせてやります。これは套路では一体になっている型ですので一体でやります。中心を相手からそらしながら回転して前に進む勢です。合わせて戻りながら自分の中心に相手を引き込みます。
次は、白鶴亮翅という型です。中心を移動させながら回転して、元いた場所から逆側に回転するという複雑な勢です。投げ技に多用します。以上を組み合わせて行ってみます。
太極拳は一つの型に含まれている多くの勢で、蹴りや突き、防御と攻撃、投げ技、関節技、抜き技、固め技、点穴という急所を撃つ技など数多く技を構成しています。
今日はほんの一例でしたが、次にこれらを使って高度な技をやってみます。
(最後に)
太極拳は医術と武術を融合させたもので、医武同源と呼ばれています。
最後に太極拳の呼吸法、逆腹式呼吸を型にした胆式をやります。立禅という基本姿勢から、大きく息を吸います。お腹がへこみます。吸いきってもう一度吸ってから、ゆっくりと吐いていきます。息はお腹に半分入り、目と目の間からゆっくりと半分抜けていく感覚です。
腰まで手が来たら手を落として吐ききり、再度吸って吐きます。もう一度です。
ありがとうございました。
寒い冬の間はどうしても外に出るのがおっくうになったり、体が縮こまって知らず知らずのうちに肩や腰が凝ることがあります。
手先足先の末端冷え性がなかなか改善しないまま春を迎える人も多いようです。
寒くて朝の早起きがつらく、毎朝の食事前の軽い運動(太極拳や畑仕事や家事)が不足して、運動不足で血流が滞っていることが一番の原因なのではないかと思います。
そこで運動不足に陥った心身を自力で整体して改善するということを考えてみます。もちろん太極拳にも自力整体の術があります。太極拳で自力整体といったらちょっと難しそうですが、太極拳などで新しく何かを行う事が重要なのではなく、普段の生活習慣をいかに脱力して自力で整体して、自然治癒力を維持していくかということにも焦点を当ててみます。
そんな自力整体の3つの脱力(筋肉・内臓・心)をふまえて、自分の心と体を見つめ直すヒントを載せてみたいと思います。
本来人間は、健康な体を維持できる恒常性を持って生きています。そのバランスが崩れたときに、病気にかかってしまうわけです。例えば、体の中では常にガン細胞が作られていますが、発生する場合としない場合があります。発症する原因は、心的ストレスや暴飲暴食、肉体疲労など何らかの原因からくる自然治癒力の低下にあります。この自然治癒力の維持こそ、最近話題となっている予防医学と繋がってくるところでしょう。この自然治癒力とは、東洋医学で言う『気』(生命が活動するためのエネルギー)が全身を流れてクリーニング&メンテナンスをしてくれる活動のことです。『気』は、緊張している部分は避けて通る習性があります。つまり、筋肉・内臓・脳の全てが脱力していることが自然治癒力を高める最大のポイントになるということです。ところで、『気』には二通り有ります。病を作るような悪い気と、自然界や宇宙と繋がっている良い気です。脱力により全身のツボが開かれていると、そこから自分の中の不要な気『邪気』を排泄し、自然治癒力を助ける宇宙自然からの気『生気』が入ってくるのです。太極拳でも、『用意不要力』という言葉があります。『意を用いて、力は要らず』という意味です。早起きして公園に行った日は、その言い伝え通り体の力を抜き、ゆっくりした動きの中でエネルギーを全身にめぐらせ宇宙の気と繋がることをイメージして太極拳を行うと、体があったかくなり、自然と一体になった感覚が体感でき、ます。これこそ、本来の人間の姿なのでしょう。しかし、普段の生活では、いかに無意識で慌ただしく動いていることが多いことか。知らぬ間に心や体を緊張させてしまっているのですね。そこで、縮んでいる筋肉に体重をかけ、指圧したりねじったり伸ばしたりして筋肉や関節を元の脱力した状態に戻すことが自力整体なのです。つまり、体が脱力して初めて整体がつくられ、ゆがみやこり、痛みを無くせるということです。
体のゆがみは人それぞれで、そのゆがみによって全体のバランスがとれている場合もあります。しかし、単なる生活習慣による癖で起きたゆがみは、体に不調をもたらします。その一番の原因は、急いだり、頑張って力んでしまったりすることです。急ぐと、上半身に力が入って緊張し逆に下半身の力が抜けてしまいます。この様な無意識の習慣が、ゆがみになってしまうのです。背骨を中心とした体の中心軸を保ち、しなやかでありながらどっしり地に足のついた下半身に重心がある脱力状態を作り出すには、先のことをあれこれ気にもまず、今この瞬間に焦点を当てて楽しむこころ構えが一番大切です。そして普段の行動においても、次のように少し意識することで脱力状態を増やすことができます。
代表的な歩き方としては、二通りあります。一つは、腕を前後に振りながら腕と足を逆方向にして歩く『行動型股関節歩行』で、西洋型とも言われています。
もう一つは、腕を振らずに同じ側の腕と足を同時に出して歩く『ナンバ歩き型骨盤歩行』で、日本型と言われるものです。この歩き方の違いは、西洋人と日本人の体型の違いからきたものなので、日本人にとって一番緊張のない歩き方としては『ナンバ歩き』なのでしょうが、結果的にその人にあった長く歩いても疲れない歩き方が理想です。
そう言われてみると、日本の時代劇では、みんな上半身が板のようにまっすぐな状態で歩いていました。初めは着物が着崩れないための楽な歩き方でそうなったのかと思いましたが、体型的な理由があったのですね。また数年前、陸上競技の短距離走オリンピック選手が、今まで腕を前後に振っていた走り方のフォームをナンバ走りに変えたところ、タイムがグッと縮まったといったドキュメント番組を見たことを思い出しました。
疲れない荷物の持ち方は、できるだけ体に近いところでものを持つことです。特に、ウエストポーチやリュックサックのように体の中心部に密着させている荷物ほど、軽く感じられます。確かに、山歩き用の大きなリュックを背負うときは、重量30㎏くらいあるものなのに、ウエストベルトを締めて荷物と体を密着させると、ほとんど重みが感じられなくなります。重いものを持ち上げる場合も、荷物を体に引き寄せて体の中心と荷物の中心を合わせると持ち上げやすいです。
逆に、体の末端つまり手先に持っている荷物ほど、重く感じられます。買い物袋をぶら下げて持つときは、小指と薬指で袋を引っかけるようにして持つと、肘がしまって肩に力が入らないので脱力して持つことができます。私も実験してみましたが、肩と肘は張らないので楽な感じです。しかし、普段あまり使わない指に力が入るので、そこが少しつらいところでした。
体の筋肉の脱力は分かりやすいですが、自然治癒力を高めて健康を維持するには、内臓の脱力も欠かせません。それには、空腹状態で脱力した睡眠時間が重要になってきます。快眠・快便によって内臓を脱力させ、食事に関しては、栄養のとりすぎは体調不良の元であると言う考え方です。実際、人間の体は空腹には強いけれど、過食や満腹には弱くできています。長い歴史をさかのぼって、狩猟生活の時代を想像すればわかることです。人間の内臓は、一日のうち2時間くらいが腹八分目で、あとは空腹であることが当たり前として作られているのです。現代人は、昔の人と比べて約3倍の内臓エネルギーを浪費しているそうです。私たちの老化や死は、老廃物の蓄積によるものです。体内で発生する老廃物の処理が出来ずに溜まると毒素に変化し、その毒素が体内組織の細胞分裂を阻害していくと死に至ります。多く食べるから内臓が疲れて老廃物や毒素が溜まり、少なく食べることで老廃物や毒素が排出されやすくなるのです。
普段の生活で感じる様々な不安、恐怖などは、素直に受け入れ、それにとらわれない生き方が重要です。先のことを不安がって妄想したときには、何かしら心の動きが生じているはずです。それをしっかり自覚して受け入れることによって、新たな選択が生まれてきます。そしてやると選択したものは覚悟して楽しんでやることが、脱力したこころの生き方です。
体にしても心にしても、まずはどんな自分でも受け入れていく事からすべては始まります。いろんな自分を自覚してさえいれば、どんな行動でも自分の中の最善を選択して起こすことが出来るからです。自力整体では、いかに普段の自分を感じていくことが大切かを教えてくれているような気がします。特に、体は生きていく上でかけがえのないパートナー。だからこそ、いつも体と相談しながら過ごすことは大事なことですよね。この記事を読みながら、少しでもみなさんが今の自分を振り返れるようなゆったりした時間をとれたならうれしく思います。
いよいよ花粉症のシーズンです。今年は花粉量も多いとか。
人間の生理には新陳代謝があります。
新陳代謝はいうなれば生成と破壊が一体として行われています。
この新陳代謝が正常に行われていると、人間の心身は正常に保たれています。
太極拳はこのような陰陽のバランスを心身に呼び戻すための、バイオフィードバック効果もあると考えられています。
套路を行っていて、そのバランスの調和を乱す働きを、自らの心身の動きで取り除いていくことで、なめらかな滔々としたと套路を完成させていきます。
この感覚を元に、日常生活においても、その感覚を持って最初のうちは意識的に自らを見つめて、その内に無意識にその感覚の中で生きていきます。水が流れるような感覚です。
このような生成と破壊のバランスは日常的にバランスを崩しては、恒常性を維持する働きが生まれると言うことを繰り返して、心身を維持しています。
太極拳の套路でも、套路がうまくできるまでは多くの人が経験する感覚です。
ところが、意識において、何らかのこだわりや滞りが生まれると、太極拳の套路でも破壊が進み、生成がおぼつかなくなります。
簡単に言うと、太極拳の型がスムーズに動かなくなります。套路においてはそのようなことが無いようになめらかに円運動を繰り返していくのですが、日常生活においてみると、普通ではそのような感覚で生活しているわけではありません。
例えば、三毒という煩悩があります。一つは貪り、そして飢餓から生まれる怒りのしん瞋、そしてその飢餓と貪りの元が見つからない愚かな痴です。このような煩悩から、人間の心身に作用する感情は怒りや不満、そして我慢などです。
唯識論参照 http://www.amrm.org/i/?cat=9
例えば、太極拳の内丹術では、怒りを息とともに外に吐ききれず怒りを残すような生活を行っていると、食道や肺、肝臓に破壊と生成の過剰が生まれます。前者は炎症、後者はガンなどです。
怒りを吸い込み腹に落としてためる場合は、胃や十二指腸、膵臓に、怒りを不満に抑え込み、水と共に外に出してしまおうとするが出し切れない場合は、腎臓や大腸や膀胱、女性の場合は子宮などに破壊と生成の過剰が生まれます。
三毒は心臓から始まるとされているので、もちろん心臓からの気血が作用するのです。心臓と各臓器は綿々と途切れることのない呼吸によって気と血が循環することで、新陳代謝をスムーズに正常に保ちます。
このような全身を巡る経絡に沿ってなめらかに心身が動く感覚を、太極拳の套路で感じて修練して、そして日常生活にそのまま活かしていくことが、太極拳のような陰陽バランスと同じ新陳代謝を自らの心身に取り戻す為の方法でもあると思います。
太極拳は、道教の理論と合致しているところから太極拳と名付けられたのですが、道教の祖は老子というおじいさんです。
テレビの香取慎吾が主人公の西遊記では、「おっぱいまつり」が大好きなおじいちゃんでした。
太極拳は中国の道教のお寺で、少林寺の内家から流れ出た僧達によって主に伝承されていて、道教のお寺が集まる武当山はいうなれば太極拳のメッカでした。(古き当時はまだ太極拳とは呼ばれていませんでした)
その老子が残した道教の道経の第四章は無源というタイトルです。無限とは限りがないということですが、この場合は源がないということになります。
太極拳にも源はありません。平たく言うと、套路の型にしてもそれが源ではなく、そこからのスタートでもありません。
技を覚えても、型を覚えても結局は、その場になってもそのとおりには使えません。太極拳はいざというときに源のない勢を使いますから,死にものぐるいの火事場のくそ力を普段から練習して思い出しておくだけのものです。その技には意識も形のようななんの源もないのです。
このように、太極拳は、深く自分の中にある人間としての無意識よりも深い生理力学を使うのですが、その源はどこにあるのかを考えます。
その源は太極拳では、神(しん)と呼ぶ,魂のようなものをさします。(魂ではありません)この源はいくら探しても見つからないし、源などはないと説明したのです。
神(しん)とは人間が今までにこの世に存続してきたことの、目に見えない力、生命力とも存在力とも言える、根本的生命力のようなものでしょう。
この力のことをあの【おっぱい祭り】大好きなおじいさんは、無源といい、源のないもの、すなわちいくら使ってもなくならない、いくらでも使う事の出来る無限のものであると説明しているのです。
もちろんこのようなものは、説明してもしきれるものでもなく、経験して感じるものです。
この経験は思想や概念で到底説明できませんが、太極拳を修練していると無源のものに巡り会うことが出来ます。
源のないもの、いくらくみ上げても枯れることのない生命力のようなもの、これをいつも使うことが大事なのです。
源のあるもの、形のあるもの、例えば筋肉や道具、身体や神経、意識や目や鼻、口,足や手などなどを使っていると、どんどん源が枯れてきます。
源になる部分をいくら鍛えても、使えばその源はそれなりに減ります。
少なからずとも無源のものは、常に使っているのですが、それに気づいていないと、おもに有源のものを使って生きることになります。
もし、無源のものに気づけば、使い方を太極拳で繰り返し経験することが出来ます。 この源のない勢を使っているととても気持ちよく,すがすがしい楽しい気分になります。
太極拳の練習をしていて熟練してくると、必ずと言っていいほどこのような感覚が増えてきます。
無源のものを使っていると、その無源のものが自分を通じて環流する感覚を思えます。
生命の内側から外側に向かっていき、又新たなものが生命の内側に新陳代謝するような感覚です。
太極拳の内丹では大周天と呼び、套路などでその感覚を経験します。
単純にイメージかもしれませんが,イメージではなく事実かも知れません。これが無源ということです。
「無源第四」道冲而用之或不盈。淵乎似萬物之宗。挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。湛兮似常存。吾不知誰之子。象帝之先。
始まりもなく終わりもないということです。
円運動や連続運動は、どこが始まりでどこが終わりということがなく、滔々と回り動き続けるというところです。
このような太極拳でも、無極という何もない完全なる無を迎えます。無極を呼吸などでいうと一切呼吸をしていないところです。意識ですらしていないところです。
そして、無呼吸から呼吸の揺らぎが生まれます。揺らぎは呼吸の始まりです。そしてその呼吸は充満と消滅というピークを迎えます。呼気であれば身体の中の息は完全に外へ出て行きます。吸気であれば、身体の中は吸気で充満します。もう息を吐けない、吸えないというところです。
そしてその呼吸は体内で充満がはち切れ、また体外に出尽くして、呼吸は無極を迎えます。意識を失いそうになるときです。座禅でいう無の状態ですが、それを太極拳では動きの中で絶えず繰り返していきます。その連綿たる動きによる発動が太極拳の原理です。いつまでも止まらない躍動的な動きです。
太極拳の套路はいうなれば、何度も何度も大晦日と新年、季節の春から夏、秋そして冬を迎えながら、心身の織りなす歴史を套路の中で繰り返しているようなものです。
一年に置き換えると、元旦は揺らぎの始まるとき、そして大晦日は充満や消滅を迎えるとき、そして除夜の鐘を聞きながら充満や消滅が消え去り、完全なる無に消え入るときです。
そして日の出と共に、又は除夜の鐘が鳴り終わるのと共に、揺らぎが始まります。
人生の1年は365日ですが、太極拳の1年は一呼吸です。
今年もゆっくりゆっくりと人生の一年をかみしめて、又新たな揺らぎを始めたいと思います。
それでは皆さん旧年中はお世話になりました、本年もよろしくお願い致します。